APPLEⅡと教育

 過去、アメリカでは教育現場に AppleⅡがありコンピュータ教育をしている。

コンピュータ雑誌にあった。うそを書いても仕方ないので本当だろう。

全米でのパソコン導入でなくいくつかの州、その中でのいくつかの郡の学校と思う。

一人、ひとりごとに使える環境かどうかも不明。

現在のアップル社のことを先入観にもつと AppleⅡはギフト(贈り物)と思ってしまうけど、たぶんそうではないだろう。

AppleⅢの騒ぎのことろと重なるからだけど、それとは別にアカデミック向けに低価格で提供していたかもしれない。

Macintosh も最初のころは価格も高いせいか、思ったほど売れなかった。

Macintosh Plus/SE から使える機械になりユーザーも増えていく。

その間は AppleⅡが売れていたので凌ぐことができた。

AppleⅡ でなくても当時のアメリカの教育現場はパソコンが広く行き渡っていたことだろう。

使うプログラミング言語は、BASIC だった。(最初に触ったパソコンが AppleⅡだった人がいるということ。それだけ。)

 日本の教育現場にパソコンは必要だろうか。自分は必要なしと考えている。

国語・数学(算数)・理科・社会・英語・歴史・生物など、これで充分だ。

実業系の高校ではパソコンは必要。みんなが進学するわけでない。

理由は、学力の基礎をつけるためで、このことを周りの人、同業者ばかりだけど否定的で自分のように考えるひとはいない。

「そんなことはない、学校教育に必要でしょう」と。

 ヒトの成長期にパソコンの知識は何か違うと思ってしまう。

ただ、どうしても普通の授業に適わない子は、パソコンを触らせてもよい。

 

なぜ、どうしてそう考えたのか。

 

一つめは、自分の周囲で嬉々としてプログラミングをしている人は少ない。

好きでたまらない。おもしろくて仕方がない。こう感じているタイプはあんまりいないと思う。

好きではないが苦にしない。このタイプを含めても全体の3割ぐらいか。

学校でどんなに教えようとしても関係がない。

自主的にするかどうかはプログラミングに限ったことでない。

二つめは、将来、今ほどガツガツとプログラムを作成することは無くなると思う。

そう考えるからだ。コンピュータ・サイエンスの基礎なんかよりも例えば作文力をつけさせるとか

人文系のほうがいいかもしれない。彼/彼女たちが人生の良い年齢に達したときに

ある日、プログラミングはしなくて良いようになった。その時はどうするのだろう。

コンピュータ・サイエンスの知識が不要になった時に、自分の身を助けるのは学力の基礎と思う。

  大学でコンピュータ・サイエンスの専攻があるのは否定しない。

そう言えば、プログラミングしているところにすごく集中していてとても近づくことができない

そういう雰囲気を出すひと(プログラマ)は少なくなった。

 

 上記のこと以外で思ったこと。

少し前に Windows 7 ベースで Windows Stater というのがあったけど、あれこそ教育現場で利用できる。

フルセットの OS である必要でなく軽量で社会に出た時のニーズに対応できる。

プログラミングの学習でも、フルバージョンである必要はなくて Visual Studio を少し触るぐらいで良い。

ネットブックという位置づけだったけど、これなら普通に Windows 7 を使う。そんな感じだった。

今にして思うと教育用であれば、それは適うようなものだ。

2023/07/15